斉藤拓也、42歳。
かつては都内の広告代理店でバリバリ働いていた。だが、会社が吸収合併され、40歳を迎える直前にリストラ。気づけば再就職もままならず、貯金も心もすり減っていった。
「俺には何もないのか?」
自問自答の末、革靴が好きだったことを思い出した。昔からスーツより足元にうるさかった。そこで、なけなしの退職金で靴職人の弟子になった。だが、2年間の修行を経て独立したものの、現実は甘くなかった。
「本革こだわってます!」「全部手縫いです!」
そんなの、今どき誰も響かない。駅前のシャッター通りで、1日誰も来ない日もザラだった。チラシも撒いた。インスタもやった。キャンペーンもやった。全滅だった。
ある日、妻に「このままだと、家、引き払うしかないかもね」と言われた。
その夜、ひとり工房に残り、酒をあおりながら泣いた。くやしくて、情けなくて、悔しくて。
そのとき、ふと目についたのが、捨てる予定だった靴ひも。
「お前なんて、誰にも見向きもされない存在だよな」
そう言って、ぐしゃぐしゃに丸めようとした瞬間、手が止まった。
「……いや、違う。まだ、考えてないだけかもしれない」
次の日から、狂ったように靴ひもをいじり始めた。ほどけにくく、結びやすく、見た目もよく。百均で買ったひもを改造し、何十通りも試した。昼は配達バイト、夜はひもを結んではほどき、朝方まで改良。
1か月後、「ほどけないのに一瞬で脱げる靴ひも」が完成した。商品名は「ほどけナイト」。
だが、売れなかった。ネットでも全然反応がない。もうダメか、と思ったとき、偶然立ち寄った駅前の靴修理屋で、斉藤は言われた。
「これ、修理後の仕上げで使わせてもらえたら、お客さん喜ぶかもな。何本か売ってくれよ」
そこでピンときた。靴を買う人じゃない。直す人にこそ、この靴ひもは意味がある。
斉藤はそれから全国の靴修理屋に片っ端から電話をかけた。DMも送った。断られても、無視されても、心折れながら、毎日10件ずつ。修理屋が喜ぶような提案書も何度も書き直した。
3ヶ月後、全国の200店が導入を決めた。少しずつ売れ始め、注文は月に数百本、気づけば数千本になった。
ある日、家でくたびれて寝ていたとき、娘が耳元でこう言った。
「パパ、前より笑ってる。よかったね」
斉藤は、何も言えなかった。ただ、目を閉じて、心の中でつぶやいた。
「勝てた理由?誰よりも、考えたからだよ。ギリギリまで、必死で」
それだけが、泥だらけの靴ひもと彼を救った
コメントを残す