バターの存在感

脇役にしてはキャラが濃すぎ

バターが嫌いというわけではないのです。

でもふと思うことがある「バターってのは主役なのではないか」と。

こんがりと焼けたトーストの上で、自身の熱に負けてとろりと崩れていく様、熱々の蒸したじゃがいもの上においてどんどんとろけていく様、芳醇な香り、乳脂肪分特有のまろやかな甘み。

それは間違いなく、食卓における一つの幸福の形だと思う。

けれど、時としてその「幸福」が、あまりに無邪気すぎると感じる場面がある。 その無垢な濃厚さが、大人の静寂を破ってしまう瞬間があるのだ。

特に、ラーメンとステーキ。この二つの料理と対峙する時、私はバターの存在に、ふと箸を止めてしまう。

味噌の輪郭、出汁の余韻

たとえば、寒空の下で暖簾をくぐる味噌ラーメン屋。 湯気の向こうにあるのは、店主が長い時間をかけて積み重ねたスープの小宇宙だ。豚骨の野性味、鶏ガラの優しさ、そして数種類の味噌が織りなす発酵の香り。それらは互いに主張しすぎることなく、複雑なグラデーションを描いている。

そこに、「バターコーン」という名のトッピングが加わるとどうなるか。 熱々のスープに落ちた一片のバターは、瞬く間に溶け出し、その全てを黄金色の膜で覆い隠してしまう。

それはまるで、静かにジャズが流れる薄暗いバーに、突然、極彩色のネオンを持ち込むようなものだ。 味噌が本来持っている塩味の角(かど)や、出汁の奥に潜む微かな苦味。そういった繊細な「陰影」が、バターの圧倒的なまろやかさによって、のっぺりと均されてしまう。

私が味わいたいのは、その不揃いな味の輪郭なのだ。 バターがもたらす「わかりやすいコク」は、確かに美味い。けれどそれは、スープが本来語ろうとしていた言葉を、柔らかなオブラートで包んで口封じをしてしまう行為に思えてならない。

肉という「生」との対話

ステーキにおいても、同じような孤独を感じる。 鉄板の上で焼かれる赤身肉。その断面から滲み出るのは、鉄分を含んだ香りと、生命の力強さだ。

私は、肉を食べたいのだ。 塩と胡椒だけでいい。あるいは、少しの醤油があればいい。肉の繊維を噛み締めた時、ダイレクトに脳に響く、あの野性的な旨味と対話がしたい。

しかし、そこにレモンバターやガーリックバターが鎮座していると、話は変わってくる。 彼らが溶け出した瞬間、肉は「料理」になってしまう。いや、料理になること自体は悪いことではないのだが、あまりにも「着飾った」味になってしまうのだ。

舌と肉の間に入り込む、一枚の油膜。 それがクッションとなり、肉本来の荒々しさや、血の通った味わいを遠ざける。解像度の高い景色に、ソフトフォーカスをかけたようなもどかしさ。 「脂身が少ないからコクを補う」という理屈もわかる。だが、その欠落した部分も含めて、素材の味ではないだろうか。足し算の美学もあれば、引き算の美学もあるはずだ。

足りないくらいが、ちょうどいい

結局のところ、バターはあまりにも「主役」すぎるのだと思う。 彼らは脇役に徹することができない。舞台に上がれば、その濃厚な愛嬌で、すべてを自分の色に染め上げてしまう。

だからこそ、私は願う。 素材が持つ、静かな声を聴かせてほしい、と。

濃厚なコクで満たされる夜も悪くはない。 けれど、今の私は、塩の粒ひとつ、出汁の雫ひとつが舌の上でほどけていく、そんな静寂な味わいを求めているのかもしれません。

溶けて消えてしまうバターのように、私のこの小さな違和感もまた、湯気の中に消えていくのだろうけれど。

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